3 背合わせ
 
 
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 部屋に戻ったユリエールは、窓が先程から開けたままになっているのに気付いた。雪が多少吹き込んでしまっている。底冷えのする夜の冷気に、吐く息が白く溶けていくのが見えた。慌てて窓を閉めると、ゆっくりと暖炉の前に座り込んだ。
――どうして。
 どうしてこんなことに、と思う。反面、それを否定する自分もいる。多少の諦念を含んで。
 ――いつかは起こると決まっていた。
 煙管に再び火を入れて、目を閉じる。
――ずっと前からわかっていたことだ。こうやって何かが始まることは。ずっと、薄氷の上を歩いてきたようなもんなんだから。
 薄い煙をくゆらす。 頭の中によぎるのは、幼い頃に旅芸人の一座が見せた舞踊だった。精霊の円舞。ちらちらと揺れる炎を手にして、美しい衣装を纏った男女が銀の舞台をくるくると回る。見とれると同時に、わけもなく恐ろしくなった。その不吉なほどの美しさ、切れ切れに遠くから鈴の音が聞こえる――そんな微かな印象。
 ごとり。薪の崩れる音にユリエールはハッと我に返る。
 もやもやと頭を悩ませ、とりとめもなく心を走らせているうちに、煙管の中身も暖炉の薪もあらかた灰になっていた。
「あ、やべ」
 窓を閉めてしまったことをようやく思い出して顔を上げたが、立ち上がって換気をしには行かなかった。どうせ今夜はもう遅い。アスカが説教しに来ることもないだろう。
 もう遅い。そこでユリエールは父親に呼ばれていたことを思い出した。行かなくては。
 毛織りの薄物を引っかけて、立ち上がる。夜は廊下にさえ霜が降りるほど冷える――その夜気のキンとした冷たさは、悩むばかりの頭を冴えさせてくれるのだろうか。
 扉に手を掛けて、はたと動きを止めた。
 彼にはもうひとつ、行かなくてはいけないところがある。
 
 
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 ねぇ、春になったら?そしたら。
 くすくすと笑いながら、じゃれるように腕を絡めた。
 それがひどく遠い昔のように思えて。
  不吉な程細い三日月。
 小さな月≪ナオツ・マタール≫が見える。 今夜、二つの月は遠く離れていた。彼女の窓からは大きな月≪カシュトリア≫は見えない。遠い神代に、空の果ての暁の女神のために、闇の神が空に放った右手と左目。右手はそなたを護るために、左目はそなたを恋うる我のために。そんな神話を思い出す。
――決してまみえること叶わずとも、そなたを愛し続けよう。
 天と地に分かたれても愛が続くのなら、死者の魂とも心は通じるのだろうか。信じてもいいのだろうか、その永遠を。
 そんなわけがないと否定する声を聞いた。
 月光が微かなのは有り難いくらいだ。彼女は枕をきつく抱きしめる。涙は静かに頬を伝い、濡れては乾いて幾筋かの線を白い肌に残してゆく。彼女はそれを拭うことをしなかった。
 声を上げてしゃくり上げて泣くことはどんなにか気が楽になるかしれなかった。子供のように――だだをこねる子供のように。だけどその泣き方はもうずっと前にやめた。朝になると目が腫れて、皆に泣いたことがばれてしまうから。
 そうやって声を殺して泣くことを自分に課した少女は、静けさの中にひとつの足音を聞いた。
――……兄さん?
 シルバは顔を上げた。
――やだ、鍵……!
 鍵を掛けておけば、寝ているふりでごまかせただろうに。足音はシルバの部屋の前でぴたりと止まった。
「シルバ」
「…………」
 どうしていいのかわからなくなって、シルバはその場で固まった。どうしよう、寝ていると思って帰ってはくれないだろうか。
「起きてるんだろ、入るぞ」
「ちょっ……!」
 立ち上がった時にはもう遅かった。暗い部屋の床に、廊下の薄明かりが淡い線を引く。そして逆光の人影。
「兄さん……お願い、出てって」
 ぱたぱたと涙が落ちる。大丈夫だと思わせたいのに、うまくいかない。
 立ちつくすシルバを見ていたユリエールは、一瞬の逡巡のあと部屋の中に入って扉を閉めた。部屋の中が再び暗くなる。シルバはきっと、自分がどんなに悲愴な顔をしているのか知らないだろう。どんなに頼りなげで、折れそうな様子なのか。
「あたしは、大丈夫だったらッ!」
――はやく、一人に戻して。
 ゆっくりとこちらに歩いてくる兄の顔はとても静かで穏やかで、心配そうな色を湛えていた。シルバは必死でかぶりを振る。
――はやく、一人に戻して。気遣ったりしないで。優しくなんてしないで。一人に。
「シルバ、無理してくれたな」
「何のこと?」
 笑って、問い返す。引きつった顔になっているのが自分でもわかった。今は窓際の自分が逆光になっていて、ユリエールから顔は見えまい、そう思い少しだけ安心する。
「ダルのために、透星行きやめたんだろ。お前こそ、外に出てたいんじゃないのか」
 ユリエールはシルバの隣まで来て、腰を下ろした。
「座れよ」
 シルバが、酷く傷ついているのは見て取れた。不吉な知らせが次々と舞い込んでくる館の中に居るのは辛いだろう。なのにあの時――会議の席で、シルバはダルシャンにその自由を譲った。
「だって。だって、あの子、泣かないのよ。あたしはまだ……泣けるけど、あの子……まだ子供なんだから、悲しかったら泣いていいのに。泣けばいいじゃない!でも、嫌な知らせがたくさん来て、天じいが殺されたって聞いても、ダルは顔色ひとつ変えようとしなかった。あんなに懐いてて、悲しくないはず、無いのに。無理してるの、あの子の方よ……!だから、せめて、行かせてあげたかったの。泣いていいのに、ダル、悲しいんなら、泣けば……ッ!」
 シルバのかすれた声がまくし立てたが、最後の方は涙混じりで聞き取れなくなる。ぺたりと座り込んだシルバの頭を撫でてやるユリエールの手つきはどこか不器用だ。数年ぶりに見た泣き顔の妹を、どう扱っていいのかわからないような。
「うん……ダルは、俺がちゃんと見てるよ。じいさまの墓見りゃ、あいつだって無理なんかできないだろ」
 どいつもこいつもやせ我慢して、とユリエールは溜息をついた。
「シルバ、それよりお前……ヘルガニムのタキが」
「言わないでよぉ!」
 シルバはくしゃりと顔を歪めて、とうとう火がついたように泣き出した。ユリエールにしがみついて、しゃくりあげる。ひとの口から言われる事実は、一気に現実味をまして胸を切り裂くようだった。
 カヤ=ヘルガの三人の息子。そのうち三男のタキ=ヘルガとシルバが恋仲だったことを知っているのは、ユリエールと翠だけだった。
 愛しいものを、手の届かないところで失った。
『シルバ』
『シルバ、春になったら――』
 優しい声、柔らかい黒髪、暖かい腕。
 春になったら、二人の仲をお互いの族長に報告して、そして婚儀を――そう、照れたように言っていたタキ。
「春なんて、まだ、ずっとずっと先じゃないの……ッ!」
 こんなにあっけなく。 あたしの知らないところで死なないで。
 ずっと一緒に。そう言った。誰よりも何よりも大切だったのに。
「死んじゃったなんて、嘘よ……!」
「シルバ」
 皆に秘めていたことだから、会議の間は取り乱すまいと努めていた。だけど、ユリエールの背中を撫でる手が優しいから。
 だから、今日だけ――今だけ。
 シルバは声を絞り出すようにして、泣いた。
――明日からは、こんな風に泣いたりしないよ。
 そうやって張りつめておかないと、自分の身体は涙の底に沈んでしまう。二度と立てなくなりそうな恐怖があるから。
「……言わないって、決めたのか」
「うん」
「……そうか」
 短いやりとりで、ユリエールは、シルバがタキとの仲を秘めたままにしておくと決めたことを確かめた。ならば誰にも言わないでやろう、と思う。
 しゃくりあげる背を撫で続けているうちに、どれくらい時間が経ったのだろう。シルバは泣き疲れて眠っていた。
――辛いだろうな。
 妹を抱きかかえて寝台に寝かせてやりながら、苦い思いを噛みしめる。改めて顔を見ると、頬には涙の痕が幾筋も刻まれ、夜目にもはっきりと瞼が腫れているのがわかった。
「……頑張れ」
 低く、声を掛けて立ち上がる。自分でも驚くくらいに優しい声が出た。
 愛する者を――ただ一人と決めた者を失うのはどんな気持ちだろう?家族とも、天のような親しい者とも、きっと違う。いわば半身を、失うということは。
 自分は未だ、巡り会ってはいない。
 だからはっきりとはわからないけれど、シルバを見ていると少しわかるような気がする。
 ユリエールは妹の部屋をそっと後にして、オルバの待つ長の部屋へと廊下を急いだ。
  自分には、まだいない。
 でもいつかそのたった一人が現れたなら、その時は。
 絶対に離さない――守り抜いて、みせる。

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