4 黒衣の男
 
 
 
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 冷たい静かな水の底に、彼の意識はあった。
 海が青いのは空の青を映しているのだという。ではこの陽の差さない深く暗い岩窟の、湖水の青は何を映しているのか。
 掬い上げても冷たいばかりだ。
 何も映してはいないのだろうか。
 水自体が持つ色――海の青とも空の青とも違う、星の底から湧き出でる神秘の色。そうなのかも、しれない。
 彼は瞬いた。水より深いその青には、深い悲しみが宿っている。
――血が、流された。
 たくさんの血が。
 彼は地上から染み込んでくる血の匂い、その禍々しい臭気に、鈍い胸の痛みを覚える。
――このままでは。
 彼は、地上で始まりつつある大きな争いの予兆を感じていた。
 かつて無いほどに、大きな争いが始まる。この地、この北の果ての地が産声を上げて以来の。始まりの時、あの大雑把な地神アーサストロヴィナの気まぐれで、小さく切り取られてしまったこの大地。大陸にありながら海と山々で他と隔絶されたキーレ・スウェル。彼の愛する小さな世界。
――このままでは……。
 彼はもう一度、未来を思う。得られるはずの未来、その形が失われようとしていた。彼の中でひとつの光がきらめいて、警鐘を鳴らす。
 大地と空気の変化に、彼はとっくに気付いていた。冬に異変が起きている。あいつが。あいつが動いているのに違いなかった。
 人との関わりを絶って久しい彼は今、目を醒ますことを選ぼうとしていた。ゆっくりと首をもたげ、そして遠い、遠い――かつては自分そのものと言っても良い程に近しいものだった空へと、意識を向ける。
 空へ。
 静かな水面に、細かな波が拡がり始めた。妙なる楽の音のように、光が躍動を始める。
 しかしそれは深い地の底での出来事。始めから終わりまで、誰の目にも映りはしなかった。
 ぽちゃん。
 小さな水音をひとつ残して、再び静寂が洞窟を支配する。
 
 
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 降り積もったばかりの雪は、足を進めるたびに舞い上がり行く手を遮る。悪態を吐きながら、ユリエールは館の外森の方に向かって平原を走った。時折後ろを振り返るのは、自分の部屋の窓と位置を確かめるためだ。正確な距離はわからないが、目に見える限り広がる無色の絨毯には、ひとつの足跡も残されていない。
――馬鹿な。
 はぁ、と息をついて辺りを見渡した。夜天に舞う息は白い煙のように、視界を横切っては消えてゆく。
 心臓が早鐘のように打っている。走ったせいではなかった。
――あの男……!
「私を捜しているのか?シーディンの」
 唐突に、低いが不思議に響く声が空気を割った。
 ユリエールは弾かれたように振り向く。ざわ、と、肌が粟立つのを感じた。今走ってきたユリエールの足跡の上に、黒衣の男が、立っていた。
「誰だ、お前!」 
 禍々しい気配ではない、だがこれは、どういうことだ?たった一瞬のうちに、音も立てずに背後に立った男は、見たところまだ若い――ユリエールとちょうど同じくらいの年頃の青年だった。上から下まで黒ずくめの長身。長い黒髪。理知的に光る目が面白がるようにこちらを見ている。
 男はゆっくりと口を開いた。
「……夜更けに、些か不用心過ぎはしないか。私が刺客だったらどうするつもりだ」
「馬鹿野郎、刺客がわざわざ獲物に挨拶するか。それより答えろ、お前、何者だ?」
「お前の敵ではない」
 男はにっこりと笑った。
 ああもう、とユリエールは頭をかきむしる。
「名は」
「……」
 男は一瞬虚を突かれた様な顔をして、視線を一瞬さまよわせたが、すぐに何か思いついたように笑って、答えた。
「……ジェニアス=エンハルだ」
 偽名か?と、その間をユリエールは不審に思ったが、そもそもこの男自体が不審なのである。真夜中の雪原をふらふらしている黒ずくめの男――これを不審と言わずして何をもって言うのか。
「……俺はユリエール」
「噂に聞いていたよ、シーディンの焔の若君のことはね」
 ジェニアスは深い――夜目にはほとんど黒と見紛うほど――瑠璃青の瞳をわずかに細める。どんな噂だよと思ったが、言葉を呑み込んだ。ジェニアスと名乗ったこの男の、正体を見極めたいという思いが先に立つ。
「それで?お前は何者なんだ。シーディンの民じゃないな」
 身に纏う色が違う、とユリエールはジェニアスを睨む。茶や、赤茶けた色の髪、緑や金褐色の瞳がシーディンの民の特徴だ。古代五氏族のバルシーリンと呼ばれた民の特徴を、ほぼそのまま受け継いでいる。
「私はただのジェニアスだ。その名以外に属するものはない。君達のいう七つの民のなかに、私の場所はない」
「異国から来たのか?ノーザの間喋じゃないだろうな」
「お前も馬鹿だな。もしそうだったとしても正直にはいそうですと答える間喋がどこにいるんだ」
 呆れたように笑うジェニアスを、ユリエールは睨む。
「はぐらかすな」
「はぐらかしているつもりはないんがな」
――なんなんだこいつは。
 やんわりと追求をかわし、自分の思うようにだけ話を進めるジェニアスに、ユリエールは苛々と尋ねる。
「……ここで何をしている」
「さて、何をしていたんだったか」
 ユリエールは再び頭をかきむしった。彼の話はまるで要領を得ない。掴んだと思えば形を失くす。
「わかっているのは、私が探しているということだ」
 静かな声で紡がれた、目的語の欠落した言葉。何をと問われる前にジェニアスは付け加えた。
「私は資質を探している。……この地をひとつにする者を」
 ざあ、と風が足下から空へと走る。雪で覆われた針葉樹は、枝葉を重く垂れ込めていて、風にざわめくことはない。代わりに足元で、積もったばかりの雪が舞い散った。細かい白が視界をちらつく。
……この地をひとつに?
 とっさに、その言葉の意味を掴みかねる。そんなユリエールの表情を見てとったジェニアスは、もう一言付け加えた。
 
「――王と、成る者を」
 
 その瞳は真っ直ぐにユリエールの琥珀の双眸を見据えていた。何かを問うように、何かを見極めるように。目をそらせないままに対峙していた時間が長かったのか短かったのかは分からない――実際はほんの数瞬だったのだが――が、ひどく懐かしいような奇妙な感覚を彼は覚えた。
 瑠璃の青が、ふ、と視線を和らげた。否、和らいだのは目の表情だけではない。瞳の色が、確かに――おかしなことに、夜目で遠目であるにも関わらずそれははっきりと見て取れた――色を変えたのだ。それは暁暗に光が差すかのような、東の天の夜明けの一瞬。
「お前はどうだ?」
「……どう、とは?」
「なる気はないか、この地の王に?」
 ジェニアスははっとするほど真顔だった。
 咄嗟に言葉を返せずに、呆気にとられたような顔でユリエールが見つめ返すと、暫くして、ふと彼は笑った。
「考えておくんだな。お前も、これから始まることの一端を担う男なのだから」
――これから、始まること?
「今夜はこれで失礼しよう。よい新節を」
「おい……っ!!」
 途端、強い風が雪を舞い上げ、思わずユリエールは目を閉じ腕で顔を庇った。風が止み、慌てて顔を上げるその一瞬――既に男の姿はそこになかった。
「……どういう、ことだ」
 呆然と辺りを見渡すが、黒衣の男はどこにもいない。足跡の伸びた跡もなければ、彼の立っていたところにもその痕跡はない。背筋に冷たいものが流れた。
――常人か?
 魔物の類が、入り込んだか。もう一度辺りを見回して、やはり何の気配もないことを確認すると、踵を返して館へと走った。
 とにかく、衛士達にあの男を捜すように言っておかなくては。
 静かな雪原に、大きな足音と共にユリエールの足跡だけが伸びてゆく。煌々と光る月が、それを見ていた。

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