剣の王と夕焼け
|
*
古い古い小さな村で、ソルはこぢんまりとした図書館に立ち寄った。 本はあまり無かった。 そして、全部がとても古かった。 その中で、ひとつだけ、何故か目をひいた本がある。ソルは背表紙の埃を払うと、ゆっくりとそれを書架から抜き出した。 ――極北の剣 真紅のビロウドで張られた表紙に、金の箔押しでそうある。彼女はそれを机まで持ってゆくと、そっとページを繰って読み始めた。 その本は、北の果てにあるといわれる伝説の王国の、建国物語だった。 燃えるような赤毛の、焔の化身のような王が振るうのは、銀の刃の大長剣。人に化身した竜が、彼のために始原の力を操る。 御伽話だ、とソルはぼんやりと思う。 この世界には、魔法も竜も存在しない。 ソルが好きなのは想像の物語より歴史の本や伝記のはずだった。 なのに、涙が出た。 静かに頬を伝った涙は、黄ばんだページに一滴落ちて、小さな染みをつくる。 (なんでだろ) 「あれ、どうしました?」 「あ、な、なんでもないです。司書の人?」 「ううん。あたしはお留守番。先生が戻ってくるまで、ここにいるだけです」 灰色の髪を三つ編みにした、黒猫を連れた少女が笑った。 「何を読んでいたの?ああ、これね」 「おかしいの。御伽話なのに、涙出ちゃって」 ソルは指先で目を擦って照れたように笑った。 「おかしいことじゃないよ。何を読んでも、泣くときは泣いちゃうもの」 少女は至極真面目な顔で言う。
「それに、これももしかしたら御伽話じゃないかもしれないでしょ?この世界にも魔法があるかも」 ソルはまさか、と笑った。 「ただの空想じゃ…」 「そういうの、考えない方が世界は広いよ。あなたが知っているより、きっとずっと世界は大きいんだから、もしかするとどこかで魔法が生きてるかも」 「そうかな」 「そう思ってみるのも、悪くないと思うな」 だって、と少女は続ける。悪戯っぽい微笑で。 「この本には、あなたの心を動かす魔法があったじゃない」 なんてね、と言って猫を撫でた。
それは口にすればとても陳腐になってしまう、そんな事実。言葉にしたらダメになってしまうような、胸の奥の不思議な感覚だった。 ソルはまじまじと本を見詰める。 ――どこかで、剣の王は生きた。 そう考えるのも、そうか、悪いものじゃない。 あり得ないことは、なにひとつない。 「ね?」 「そうかも。ありがとう」 「ううん。あたしシファン。この子はムン」 「あたしはソル。もう行くね」 一度だけ握手をして、猫を撫でて。 ソルはトランクを持って図書館を出ようと歩き出した。 「ソルちゃん。あなたの旅が、あなたに優しいものでありますように。気をつけてね」 「ありが…と……う?」 声に振り向くと、もうそこにシファンの姿は無かった。机の上で黒猫が大きく伸びをして、書架の向こうへと走ってゆく。 「シファン?」 答えは無い。 ソルは首を傾げて、そのまま図書館を出た。 シファン。 「どこかで聞いた…?」 ソルは首を傾げた。思い出せない。 考えてもわからないので、ソルは、小さな宿に戻って、ご飯を食べて、寝ることにする。 次の日の朝、彼女はこの村を出た。 途中で図書館の前を通ったが、シファンに会うことは、無かった。 ** 「あり得ないことは、なにひとつない」 そう考えるのも悪くはない。 奇跡だって、起こる。 ソルは丘の上に座り込んで、見事な夕焼けを眺めていた。 オレンジ色に光る太陽の周りの、薄い雲は黄金の縁取りを受けている。周りに広がる薄桃色の柔らかい輪郭、その外にはうっすらと青い空色。遠くを鳥が飛んでいる。 あんまり綺麗で、涙が出た。 そして、本を読んだり、綺麗な夕焼けを見たりして涙を流せるのは、とても幸福なような気がした。 何かに感動して、流せる涙がある。 ソルは微笑む。 どうか、あたしの旅が、何かそういうもので満ちていますように。 たくさん、泣いて笑っていけますように。 空がゆっくりと夜闇に沈む。 星の瞬き始める頃、一度だけ天蓋を振り仰いでから、ソルは丘のふもとに見える次の街の明かりを目指して、自転車に乗った。 おしまい
2004年7月発行個人誌「旅行者」収録作品 * top * >
|