スカイベリ[天葬]
※多少、残酷と思われる描写があります。
   
 
 
 
 
「空が見たいわ」
 透きとおるように青い、聖なる山の天蓋を。
 それが、生まれてから一度も青空を見たことが無かった少女の最期の言葉だった。
 
 
 
 
 
   *
 
 
 
 旅の途中で知り合った人が死んだのは、初めてだ。
 大いなる岩の山脈、カルラッカ。
 靴を壊してしまって、街道を歩くこともできなくなり、野宿しようかと思っていた旅行者、ソル=ブライトは、朱の部族長ベールヤッカに拾われて、一週間ばかりを山の中の朱の集落で過ごした。
 そこでは何もかもが循環していて、人はその中で生かされている。当たり前の構図が、際立って感じられる土地だった。
 そこで、ソルは少女に出会う。
 
 
 彼女の名前はラーサメリナといった。ベールヤッカの長男の次女の末娘で、九十六歳になる部族長の、最後の曾孫だ。
 カルラッカの民は皆、赤茶けた髪と濃い瞳、日に焼けた肌を持っていた。その中で、ラーサメリナだけが違う色彩を纏っていて、ソルは目を奪われる。
 濃いミルクのような、ふわふわとした乳白色の髪。夜明けの雲の切れ端のような、淡く透きとおった赤紫の瞳。全く日に焼けていない、白磁の肌にはシミひとつない。
「どうしてかしらね、私だけ、こういう色なのよ」
 ラーサメリナはちょっと困ったように微笑むと、自分の髪を一房とってランプの灯りに翳した。
「あたしは綺麗だと思うけどな」
「色だけならまだいいがね」
 ベールヤッカが煙管から薄い煙を吐き出しながら、溜め息をついた。
「色のせいか、この子は日の光に耐えられないんだ。直接太陽を見りゃ目が潰れ、肌をさらせば火ぶくれで三日三晩苦しまにゃならん」
 ソルは、かつて一緒にいた青年と、彼がいつも手放さなかった薄紫の日除けの長布を思い出した。
「あたしの知っている人で、あなたとおんなじ苦労をしている人がいるわ」
 切ないような気持ちで、ソルは微笑む。ラーサメリナはそう、と少し驚くと、厚いショールを肩に掛けなおした。
「夜は外にも出られるし、気をつけていれば、そんなに辛くはないのよ。ただ――」
「ただ?」
「晴れた空が見れないのが、とても残念。とても青いんでしょう?高くて、澄んでいて」
 曾祖母の揺り椅子の横で刺繍をしながらラーサメリナは、遠くを見るように言った。
 届かない。
 カルラッカはとても天に近い土地なのに。
「ソルはたくさんの所を歩いて、たくさんの空を見てるんでしょう?教えて、ソル。その青がどんななのか」
 ソルは、雨上がりの空の青さを教えた。夏の、雲ひとつない空。冬の鈍色。春の青空の下を渡る、緑匂う風。秋の高く切ない空。朝焼けの壮麗さに、夕焼けの絢爛。
 言葉を尽くしても、伝えきれないものがあると知った。それでも、ラーサメリナは嬉しそうに、目を閉じてその色や空気を思い浮かべているようだった。
 
 
 高く青い空を思って。
 届かない手を、伸ばすことすら許されない少女。
 彼女の命が尽きてはじめて、願いは叶うことをソルは知らなかった。
 
 
 
   **
 
 
 
 数日後、ラーサメリナは死んだ。
 風邪をこじらせて、ひどくあっけなくだ。
「ラーサ」
 ベールヤッカは一回り小さくなったように見えた。曾孫に先立たれる痛みは如何程だろうか、とソルは思う。十五歳のラーサメリナ。死ぬには若すぎると誰もが嘆いた。
「アンタも葬儀に出ておくれ、ソル。あの子も喜ぶ」
 ラーサメリナの母親が、力の抜けた笑みを浮かべる。
「…はい」
 少女の細い肢体は、赤い布に包まれて横たわり、僧侶達が一心に祈りを捧げている。長い経典を手繰り寄せながらの読経のその声には、とても神秘的な響きがあった。
 ラーサメリナの魂が、この読経で鎮められ、肉体からゆっくりと離れるのだという。
「じゃあ、魂は自由に何処へでもいけるってこと?」
「そういうことになりますね」
 ソルは僧侶の一人と話をした。カルラッカの岩肌の色を纏った、他の僧とは違う、東国の若い学僧だ。更(さら)と名乗った彼は、静かに微笑んで答えた。
「じゃあラーサは、もう自由に空を見に行けるのね、何処にでも。…死んではじめて、自由になれるなんて」
 なんだか、切ない。
「いいえ、ラーサメリナは、もうずっと前から自由でした。彼女の心は、いつもカルラッカや、遠い異国の空を見つめていましたから」
 更はしゃら、とラーサメリナの上に銀の鎖の環をかけてやる。この輪を通って、彼女の魂は肉体を離れるらしい。
「心は自由だった?」
「そうです。あの子はしなやかな心の持ち主でしたから、肉体がたくさんの枷を心に嵌めても、希望を追う事だけはやめなかった」
「じゃあ、身体は?」
 更は少しだけ躊躇って、それからソルをじっと見た。
「葬儀を見れば、答えがわかるでしょう。魂とは違って、彼女の肉体は、死して初めて、空へ昇ることができるんです」
 葬儀は明日。ソルは重苦しい気持ちで、その夜を過ごした。
 
 
 
   ***
 
 
        きざはし
 葬儀は「天の階」と呼ばれる場所で行なわれる。ソルはベールヤッカに付いて、朝早くそこへ向かった。
「棺は?」
「棺?なんだいそりゃ」
 装飾布を掛けた木の担架のようなもので運ばれてくるラーサメリナを見て尋ねたソルに、ベールヤッカ達がきょとんとして応える。
 ソルが生まれ育った街では、死者は棺に入れて地中に埋めるのが普通だった。そしてその上に若木を植えるのだ。木が十分に育つ頃、役目を終えた肉体は完全に土に還っている。
「…そのまま埋めるの?」
 怪訝そうにラーサメリナの身体を見つめていたソルだが、儀式の始まりを告げる朗々たる僧侶達の声に、背筋を伸ばして応じた。
「あなたにも、少し酷なものかもしれませんよ」
 いつのまにか隣に来ていた更が、小さく呟いた。
「え?」
「……始まります」
「……――ッ!」
 ソルは声にならない悲鳴をあげた。二人の僧が読経を始める中、もう二人が巨大な斧で、岩の上に横たえられたラーサメリナの首と胴体を切り離した。
「なっ…さ、更さん、これは…?」
 答えはない。見ると、更も静かに経典を手繰っている。美しい声。だけど、それを聞いている心の余裕が無い。
 見る見るうちに、腕や足がバラバラに解体されていく。血が岩肌に飛び散り、黒ずんだ染みを残す。骨までも、細かく砕いて行くその光景に、ソルは吐き気を堪えなくてはならなかった。
「どうしたね、ソル。青い顔をして」
「…これが、ここのお葬式?」
「そうさ。ご覧、モーリアが集まって来た」
 ベールヤッカが岩壁の上を指差す。そこには数羽の漆黒の鳥がとまって、下で切り刻まれる少女の体を見つめている。
「あの鳥はカルラッカの神の使いだ。彼らに食べて貰う事で、人の体は大いなる円環の中に戻ってゆくのさ」
「鳥に?食べさせるの?」
 生きてる間にゃ、アタシ達が鳥を食べてきたんだから、とベールヤッカは呟き、細かく切り刻まれたラーサメリナだったものを見つめる。
 僧侶の一人が、大きな石をラーサメリナの頭に落とした。鈍い音を立てて、頭蓋が割れ、美しかった髪の毛が血に染まる。
 ソルは口元を抑えた。悲鳴を押し殺す。
 信じられない。こんな葬儀があるなんて。
 だけどベールヤッカの言葉は、奇妙な力に満ちていて、この理念がひどくもっともなことに思える。
「モーリアよ、我らの子ラーサメリナを、カルラッカの果ての空まで連れて行き給え」
 僧侶達が、大きな骨のついた欠片をモーリア鳥達に投げ与える。十数羽の鳥達が、「天の階」に舞い降りて来て、それを啄ばんだ。黒い羽が幾つも落ちてくる。
「ラーサ…」
 家族の方を見ると、皆神妙な面持ちで骨が投げ与えられるのを見つめていた。泣いているものもいるが、ソルがよく故郷の町で見たような、金切り声を上げて故人の名を呼んだり、墓に取りすがって泣いたりする光景とはとても遠い。
「こうして、骨から投げ与えるのはなんでだと思いますか?」
 更が、静かに問う。ソルは呆然として応える。
「更さん…。わからない。どうして?」
「家族は残さず全部、モーリアに彼女を食べてもらいたいからです。普通にあげると骨は残されてしまうので」
 残らず総てモーリアの腹の中に入れば、そのまま空へと肉体は運ばれてゆく。ラーサメリナは叶わなかった願いを、叶えるのだ。
「空へ?」
「はい」
 彼女の心はずっと空を見ていたけれど、日の光と相容れない体のせいで、本当の空を見ることはできなかった。
 それが、死んだ体をモーリアに食べさせる事で、叶う。黒い翼が、彼女を大空へと連れて行く。
「ああ……空へ、ラーサは行けるんだ」
「ええ、体は流れつづける円環の中に戻るんです。そしてまた何かとしてどこかに生を受けるときには、円環の中から旅立ってゆく」
 更は、僧衣には不似合いな、右手に嵌めた銀の細い腕輪を撫で、微笑んだ。
 ソルは鳥達が屍肉をついばむのを横目で見ながら、ハッとしたように呟く。
「ここでは、土葬が出来ないんだわ」
「そう、それもこういう葬儀が始まった理由の一つですよ。この厳しい環境で、自分達を生かしてくれた生物への感謝でもあります」
 そうか、とソルは頷く。
 
 
 
 
 陽が南天に差し掛かり始めた。
 カルラッカの、奇妙に思える葬儀が終わる。
 鳥達は血まみれの岩の上から、骨も肉も総て拾い集めて食べた。
 そうしてまた黒い翼を羽ばたかせて、空へと帰って行く。ラーサメリナを連れて。
 彼女は文字通りに、空の高みへと、昇る。
「ラーサ…」
――空は高くて、青いよ。澄んでいて、綺麗よ。
 今まで見れなかった分も、見て、とソルは呟く。
 拾ったモーリア鳥の黒い大きな羽を一枚、トランクの横に挟み込んで、ソルはカルラッカを後にした。
 
 
 ラーサメリナがあの綺麗な紫の目で、空から穏やかにこちらを見つめているような気が、時々する。
 
 
 
 
 
おしまい
2004年7月発行個人誌「旅行者」収録作品

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