時計
  
 
 
「よぉ、ソル=ブライト」
 東の果ての国、と呼ばれる島国の、大きな街の小さな食堂で、ソルはミツマメとかいうものを突っついていた。その時いきなり、三つ編みにしていた黒髪を後ろから引っ張られて、ソルは慌てて振り返る。
「あなた誰?」
「リプコプの街で、カーとエカテリーナに会っただろ。あいつらの親玉さ」
 酩酊しているかのようなふざけた口調で、ピンク色の髪と琥珀色の瞳、色どりに節操の無い派手な服を着たその若い男は、にこ、と笑った。
 まるで、極楽鳥。
「カーとエカテリーナ…ボス?」
「そ」
 ソルは呆れたように口を開いたまま、もう一度男を見る。見れば見るほど、不思議な男だ。
「伝えたいことがあってさ」
 ボスはひょい、とソルの帽子を摘み上げ、くるくると指先で回す。
「なに?」
「ロウミュラの火は消えた――何のことか、わかるな?」
「…終わったの?」
 ソルはハッとして問い返す。
 ロウミュラは、彼女が後にした故郷の街だ。
「ルネが、約束どおりお前を待ってる。あの街に帰ればいい」
 ボスはソルの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「帰れるの」
「そう」
「ほんとに?」
「しつこいな、嘘ついてどうするよ」
 何度も聞きなおすソルに苦笑して、ボスは帽子を返した。青い目を真ん丸に見開いて、彼を見つめたままの少女の頬に手を掛ける。
「ん、何?惚れちゃった?」
「そんなアホな」
「あっ酷い」
 間髪入れずに答えたソルは、漸く力を抜いて笑った。
 はじまりの街へ帰ることが出来る。
 旅を始めた場所、大切な人が待っている場所へ。
「ありがと、教えてくれて。ねぇ、ボスって名前じゃないでしょ?教えてくれる?」
 俺?ときょとんとした顔でボスは言う。
 名前を聞かれるのは珍しいかもしれない、と彼は笑う。
「別にボスでいいんだけどねぇ。じゃあ、特別に教えてやろう」
 ソルの耳元に顔を寄せ、囁いた。
「――……」
 初めて聞く筈なのに、なぜか懐かしいような、そんな感覚に襲われた。
「どこかで聞いたような気がする」
 小首を傾げると、ボスはにっこりとまた笑った。とにかくよく笑う人だと、ソルは思う。
「古い言葉で、空……天って意味だよ。お前やルネみたいな奴が、それから、ササイやリブラみたいな奴が、自由に生きられる世界をつくる。これが、俺の野望で、ひとつだけ俺が好きな仕事」
 笑顔は同じなのに、突然に厳かな口調になる彼を、ソルはまだ見つめている。
「仕事、嫌いそうだもんねぇ」
「あれ、バレてる」
 世界をつくるだなんて、大それた野望を持つ彼は、一体何者なのかと考える。
 考えようとして、やめた。
 知ってしまうのもつまらない。それに、自分を天と名乗る男が気に入ったから
「あたし、あなたの声聞いた事があるような気がするんだけど」
「ああ、俺はお前を知ってるからね。牢獄に催涙ガス撒いたときから」
 ソルはハッとしたように顔を上げる。ソルが親しんだ街から出て行くとき、牢獄に囚われていた彼女を逃がしてくれた男の声…その陽気な低音。
「あなただったんだ?」
 幸せ者、と。まどろみの中で聞いた気がする、その声。
「カーもいたんだぞ、あの時は」
「そうなの?」
 初耳、とソルは唸った。カーはどうして知らないフリをしたのやら。
「ま、そんなこたぁどうでもいいんだ、ソル」
「へ」
 ソルが間抜けな声を出す。ボスは言った。
「あの街に、帰ってやりな、早く。ルネが、お前を待ってる筈だから」
「…うん。うん」
 ソルは力一杯に頷く。
 ゆっくりと、道を辿っていこうかと、思う。
 旅をしていた間、ずっと止まっていた時計が、静かに動き出す。
 たくさんのものを見て、たくさんの人に出会うことが出来た。かつて彼女と、幼馴染のルネ=セブンスが約束した実り多い旅路を、辿ってこれたとソルは思う。
「帰るよ」
「気ぃ付けて」
「ありがと――シエル」
 ソルは立ち上がると、肩越しに満面の笑みでボスを見た。
 
 
 
 天、という名の男は、手を振るソルを見送って、暫く経ってからゆっくりと食堂を出てゆく。
 向かう先は、王宮。
 彼がこの島国の王座におとなしく座っていることは、殆ど無い。
 
 
 
 太陽、という名の少女は、自分がものすごくはしゃいだ気分でいることに戸惑いながらも、大通りを港に向けて歩いた。
 時計の針が奏でる音が、これほど心地よいのかと、ソルは少しだけ感動する。
 彼女は、彼女のもといた場所を目指して。
 漸く長い長い旅の、復路を見つけた。
 
  
 
 
  

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