はじまりの街
01
 
  
 
 
 
 戻っておいで、と彼は言った。
 いつまででも、待っているから、と。
 
 
 
 
 
   *
 
 
 
 暮れるロウミュラの街を、彼女は窓から眺めていた。
 丘の上にあるこの都市でも、一際高台に位置する高級住宅街。
すべてを見下ろすようなこの眺めが、彼女はあまり好きではなかった。高い所は好きなのだけれど。
 彼女の手が、考えを遮るようにカーテンを閉めた。
 ソレイユ=アーテンサイアは今夜、彼女の父親とその部下達との会食に参加することになっている。
 瞳と同じ青のたっぷりとフリルを使ったドレスに着替えさせられ、ゆるめに長い黒髪を結い上げた彼女は、乳母のネネとその他の世話係に、玄関ホールに連れて行かれる。
「行ってらっしゃいませ」
 彼女の父ネイズは、ロウミュラ都市議会の議長。母のライフは、この街に住みいた旅人の娘だったらしい。ブライトという旧姓と、背の高い、黒髪の美しい人だったということしか、ソレイユは知らない。彼女が三歳のときに、母は亡くなっているからだ。
「…行きたくないんだけど」
「まぁ、なんて子供のようなことを、ソル嬢ちゃま」
 それからはこの、ばあやというには若いが姉と言うような年でもない、小柄なネネがソレイユの母代わりだった。
 ネネは困ったようにソルの手を取って、諭す。
「もう十六なんですよ、嬢ちゃま。いつまでも子供のような我儘でどうするんですか」
「そんな事言ったって」
 尚も拗ねたように唇を引き結ぶソレイユ。だけれど、次の言葉を聞いて、押し黙った。
「嬢ちゃま、美味しい食べ物は大好きでしょう。いいじゃありませんか、黙って座っているだけでいいんでしょうに」
「……うぅ」
 確かにそうなのだけれど、そのただ座っていることが苦痛なのだとは、言えない。ソレイユは結局、いつものように大人しく送り出された。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
 
 使用人たちが深く深く頭を下げる。
 ソレイユは、それを見るのが何より嫌いだった。
 
 
 住宅街から、商業区の料理店に向かって緩やかな坂を下ってゆく。裾を引きずるような服でもないので、今日は歩きだ。車を使う時もある。
 強面の護衛二人が、両脇についてきた。歩いて十五分とかからない店に行くのにしっかり護衛がつくのは、ネネが言うところの、「こんな世相」だからだ。
 ロウミュラの街は今二つに割れている。ますます増税をしようとする議会派と、それに反対する市民派とが睨み合ってもう一年。税収が上がることで得をする人間は限られているため、人数では圧倒的に市民派が有利だ。しかし議会が統括する公安警察を恐れて市民派は動けないでいるのだった。
 二人の護衛も、公安の職員だろう。議長をはじめ、要職の議員や幹部・その家族には、例外なく護衛が付けられている。
 なんだか居心地の悪い街。
 そんな風に思うのは、あたしがおかしいのかなとソレイユは思う。
(父さんは、私たちには統治の報償を受ける権利が有るって言ってた)
 報償にはそれに値するだけの働きが必要なんじゃない?下町では子供が飢えているのに、議員は毎夜晩餐会。
 父の言葉はどこかおかしい気がするけれど、娘が異を唱えるのを、彼は許さないだろう。
 議長の娘を市民派が受け入れてくれることもないだろう。
 
 なんだか、居場所の無い街。
 
  
 
   **
 
 
 
「ソル?」
 日も沈み、夕闇が広がってきた。あと少しで店に着くという頃、路地から男の声がソレイユを呼んだ。
自分のことをソル、と呼ぶ人を、彼女は三人しか知らない。父と、ネネと、彼だ。
「ルネ」
 ひょこ、と路地から姿を現したのは、薄紫色の長布を頭からすっぽりと被った、細身の青年だった。伸びかけの、薄い、白に近いような金の髪を後ろで縛っている。嬉しそうに微笑む瞳は明るい緑。
「久しぶりだね」
「うん!」
 ソレイユは青年に駆け寄ると、にこにこと笑ってその細身の身体に抱き付いた。
「ソレイユ様!」
 護衛の一人が声をあげたが、ソレイユは無視する。
 ルネ=セブンスはソルを剥がしてその格好をまじまじと見た。
「どうしたの、めかしこんで」
「父さんと、そのお仲間と食事」
「毎度毎度大変だなぁ」
 ルネは、昔隣に住んでいた、四歳年上の幼馴染だ。ネイズが議長に就任してアーテンサイア家が引越し、ソレイユが普通の女の子じゃなくなるずっと前から、ルネは普通の男の子だった。彼女が普通でいられなくなった後もずっと、今も普通の男の人だ。ずっと、ソレイユの安心できる場所で在り続けてきた。
 彼が普通じゃないのは、生まれつき肌がとても弱くて、太陽の光に耐えられないこと。光に当たると肌が爛れたようになってしまうので、ルネが外を歩くのはいつも陽の沈んだ後だ。
 ルネは優しい声で、ソレイユに尋ねる。
「気乗りしない?」
「そう見える?」
 ソレイユは半ばやけっぱちで笑う。
「嫌そうだ」
「もうたくさんよ、道端でお腹すかせた人が座り込んでるのに、自分たちだけ値段聞いたら味わかんなくなるようなご飯食べて」
 護衛の二人には聞こえないように、呟く。
 ルネになら、何でも話せる。そう思っているから漏れた呟きだけれど、それを聞いたルネは少しだけ眉根を寄せる。
「ソル」
「何よ」
 ルネは、ソレイユの目を真っ直ぐに見て、一言だけ声を落とした。
「オレ達と来ないか」
「…え?」
「ソレイユ様、時間が」
 彼女が彼の意図を掴めずに、ぽかんとしているその間に、護衛が二人を引き離した。二人の男はルネに冷たい一瞥をくれ、少女の両脇を固めるように挟んでその場から遠ざからせる。
 ソレイユが振り返ると、ルネは諦めたように手を振って、路地の奥へと消えた。
「……ルネ?」
「お嬢様、あまり市民と接触なさるな。しかもあの男、確か『青い鳥』の構成員ですぞ」
 『青い鳥』はロウミュラ市民派の代表的組織だ。男の一人が渋い顔で言うので、むっとしたようにソレイユは彼を睨む。
「ルネはあたしのこと殺そうとしたりしないし、見境なく疑って遠ざけるような失礼なこともしないよ」
「…それは結構なことですな」
 男は口の端をひくつかせて笑う。生意気な小娘だとでも思っているのだろう。
 「急ぎましょう、もうすぐ時間です」
 ソレイユは無言で頷くと、完全に夜の闇が支配し始めた街を歩き出した。
 
 ルネは何を言おうとしたのだろう。
 考えながら彼女は、美味しいけれど美味しくない晩餐を黙々と口に運び、ときたま愛想笑いを作る。
 考え事があったほうが、退屈じゃなくていい。
 
 
 
 
 

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