ただいま。
彼女の旅は、続く
  
 
 
 
 
 その街を目にしたとき、不覚にも泣きそうになった。
 彼の墓標と、その後ろに植えられて健やかに伸び行く若木を目にしたとき、ソルは泣いた。
「…ただいま、ルネ」
 
 
 
 
 
   *
 
 
 
 ソル=ブライトは、長い黒髪を二つに分けて結い、大きな青い目で街をじっと見つめた。
 ロウミュラの街はすっかり様変わりしている。フローラ=ウインストンの旅券で町へ入ると、なるほどあの暴動の影は殆ど無い。道にうずくまる人々の数も、減ったように見える。
 戻ってきたのだ、とソルは思う。気候にも因るのだろうか、空気の匂いがどこか懐かしい。
「…ソレイユ?」
 唐突に名を呼ばれ、振り返ったソルは――多少の緊張はした。「ソレイユ」の事を知っている人は、きっと快く思わないだろうから――そこに、懐かしい人の驚 いた顔を見つけた。
「ギア!」
「お前…っ」
 黒髪に褐色の肌、不機嫌そうな緑のタレ目。ギア=ウインストンは、一瞬何かを怒鳴ろうとしたようだった。それを飲み込んで、彼は尋ねる。
「いつ…戻ってきたんだ」
「今日だよ」
 ギアは、気まずそうに少し視線をずらしている。目を泳がせてから、ゆっくりと呟いた。
「久しぶりだな」
 ソルは怪訝そうに首を傾げる。ギアと言う人は、ここで激しく突っ込んで、延々と文句を言う人のようになんとなく思っていた。
「そだね」
「……お前がいなくなった後でな、ダグラスが捕まった。覚えてるか?あの気持ち悪ィ笑い方するトカゲみてーな奴だ」
 覚えている。ソルが頷くと、ギアは続けた。
「あいつは議員の秘書だった。お前の家にも出入りしてた筈だ。スパイはあいつだった――全部」
 そうだったのか、とソルは溜め息を付く。どうりで、見おぼえがあるはずだ。
 ギアの声が止まる。彼はじっとソルを見て、意を決したように、頭を下げた。
「悪かった…殴ったりして」
 全部、誤解だった。ソルの事を最後の最後まで、少しも疑うことが無かったのは、ルネただ一人。それに気が付いたとき、ギアは自分がそうしたかったことに気付いた。信じたかったのだ、ソルを。
 だからこそ、彼女が内通者だと思ったときに、裏切られたようでカッとした。
「…もう、いいよ。いいんだ。」
 そう言って微笑む彼女は、少しだけ涙目で。
 ギアはますます罪悪感にかられた。
「ねぇ、ギア。ルネは?」
 ソルがギアに尋ねるが、ギアは表情を凍らせると、押し黙ってしまった。
「ギア?」
「…会いに行くか?」
「うん!」
 ギアはとても複雑そうに、口の端で笑んだ。
 
 
 
   **
 
 
 
 街の一角の墓地に連れてこられたソルは、漸く事の真相に気付き始めて、呆然と呟いた。
「ルネ」
「…こっちだ」
 ギアは、先に立ってソルを案内する。いつかと同じに不安げに手を握ってくる彼女を怒鳴りつけようとしたが、結局黙って手を繋いでいてやった。新しめの墓標を見つける度に体を強張らせて手に力を入れるソルが痛々しくて、ギアはその度少しだけ手に込める力を強くする。
「ここだ」
 ザア、と風がざわめく。
 春の優しい風に揺れる白っぽい枝の若木と、その根元にある小さな黒い石の墓標が、ソルの目に飛び込んできた。
 
 
ルネ=セブンスここに眠る
 
 
 日付は一年程前だった。丁度東の果ての国から、シエルに言われてロウミュラへと帰るための旅路についた頃だったと、思う。
「ルネ…待ってるって、言ったじゃない…っ」
 死んでしまったなんて嘘だ。しかもそれが、ソルを逃がしたせいだなんて。
「ルネぇ…」
 涙が後から後から、尽きせぬ泉のように溢れ出てくる。それを拭う事はしなかった。
 いつまででも、待っていてくれると約束した。それなのに。やっと帰ってきたのに、ルネはいない。
「あいつは最後までお前のことばっかだった」
 ギアがぽつりと呟く。
「お前が好きだって、何度も」
 そんなこと、本人から言ってもらわなくては困る。
「ソレイ……ソル。裏、見てみろ」
「え?」
 ギアがソルの腕を乱暴に引っ張って、ルネの墓標の裏書を見せる。そこには彼の死んだ父母の名前が小さく彫られていた。その下を、ギアは指差す。
 それを読んで、ソルの涙はまた溢れ出す。どうしたらいいのかわからない程に。溢れて、溢れて、もう何も見えなくなった。
 
 
ソル ここが君の心の帰る場所であればいい
いつまでも 君のことを思う
 
 
 約束は終わってなんていなかったのだ。ここに、そのまま。ルネが生きているのと同じくらい確実に、いつまででも待っているという彼とソルとの約束は、ここにある。
 ルネ。
 どうしてこんなに、あたしなんかに優しいの。
 優しい月の灯りが、いつも心の支えだったけれど、どうしてそれが自分の上に降り注ぐのかは、知らないままでいた。
 ギアはソルと、ルネの墓標を見つめながら、切ないような、苛付くような、不思議な感情に囚われる。
 ルネ。
 お前は、ズルい。
 どうしてこんなに、あいつを捕まえて離さないんだ。
 そうしてギアは思う。それはルネの気持ちが、とっくの昔から愛だったからだろう、と。
 
 
 
   ***
 
 
 
「お前、これからどうするんだ」
 懐かしいアパートのギアの部屋。変わらず美味しい料理を食べながら、二人は静かにに話をしていた。
「…旅をね。続けようと思って」
 ガチャン!
 ギアが乱暴に食器を置いた。
「はぁ?」
「今までと同じに。働いて路銀を稼いだりしながら、もっといろんなところをね」
 ソルは平静で、ロールキャベツに舌鼓を打っている。
「折角戻って来れて、疑いも晴れてるってのにか?何でだよ」
 ソルは、ちょっと言葉を捜してから、言う。
「ルネとの約束。あれが終わらないのを確かめたから。もっともっと、いろんなものを見てみたいの」
 変?とソルはフォークを置く。
「……いーんじゃねぇの、お前がそうしたいなら」
 ギアのぶっきらぼうな答えが懐かしくて、嬉しいのはやっぱり変なのかもしれない。
「そうする」
「あのさ、ソル」
「ん?」
 ギアは、がしがしと頭を掻き毟りながら、唸るように言った。つっかえながら、それでもソルを見つめて。
「たまには、帰ってこいよ。んで、ルネの墓参りだけじゃなくて…俺ン処にも…顔出せ。野垂れ死にしてんじゃねーかと思って気が気じゃねー、から、さ…」
 ソルは驚いたようにギアを見つめると、にっこりと笑って言った。
「ありがと、ギア」
 とても心配してくれるのが、わかったから。
 ルネの上に立つ木が枯れてしまわない限り、ギアがこの街にいる限り。
 ここは始まりの街で、終りの街だ。
 そしてその終りは、終止符なんかじゃなくて。たくさんの旅で出会ったモノや人、思い、景色。そういうモノ達を、整理するためのひとつの節目だ。
 全部抱き締めて、先へ進んでゆけるように。
 
 
 
   ****
 
 
 
 ルネ、行って来ます。
 あのときよりあたし、ちょっとだけこの世界のことがわかった気がする。
 辛いこといろいろあるけど、最悪じゃない。
 幸せもたくさんあるけど、全部違うから、飽きることなんてなかった。
 あたしは、またいろんな所に行って、いろんな人と会って、いろんなものを食べて。何かに笑って、何かに泣いて。そうしてちょっとずつ豊かになっていけたらと思う。
 それでちょっとずつ、ルネに貰った気持ちを他の人に分けてあげたい、とか、思う。
 ねぇ、ルネ。
 大好きだよ、あたし、ルネのこと。
 行って来ます。
 綺麗なものも、汚れたものも、皆みんなひっくるめて。愛していけるようになるまで、あたしの旅は、続くんだと思う。
 
 
 
 
 
彼女の旅は、続く
 
 
 
 
 
2004年7月発行個人誌「旅行者」収録作品 
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