クノッソス
01
 
 
 
 
 
 その都市には、膨れ上がった異物があった。
 異物はどうにか異物でなくなろうとしたけれど、やっぱりそれは不可能だった。
 どんなに頑張っても、それは異物。
 ただ、それも都市も、人だった。
 だからこそ、それはいつまでも異物であったのだ。
 ――だけど。
 
 
 
 
 
   *
 
 
 
 きらきらと、音がしそうな程に日の光を細かく割り砕いて反射する海。天気は良かった。海と空が繋がりそうな程青く、植物の緑と建物の白と、そしてその青しか、この景色に色はないように思われた。
 木々越しに都市を見渡す街道を、カゴがひんまがった自転車を押しながら少女が歩いて来る。よく見るとジーンズには土埃や擦り切れた跡が見え、彼女がそのへんで転んだのであろうことは想像がついた。
 カゴが曲がった所為で積めなくなったらしい小ぶりのトランクが、無理やり後の荷台に括り付けられている。荷物は少なかった。
 街道の端から、小さな横道が少し開けた平坦な場所へと導いてる。少女は少し躊躇ってから、横道のほうに足を向けた。さわさわと下草が鳴る。
「……すごい。綺麗」
 広場に出ると、先程まで木々に遮られていた視界が一気に開けた。光る海と空、白と緑の群生。眩しさに眼を灼かれるような景色に、少女は思わず、感嘆の声を上げた。
「ふん、綺麗なものか」
「はぃ?」
 思いがけず返ってきた言葉に、少女は怪訝な顔で振り向いた。振り返ると、黒い女がいた。
 …喪服か?
 じりじりと、とはいかないまでも日差しの強い真昼間に、女は詰襟で肌を隠した、真っ黒な服を着ていた。ご丁寧に黒レースのヴェールまで被って。
「…喪服さ」彼女の困惑を読み取ったかのように女は言った。
「…それは、お気の毒に」
 その声では、初老に差しかかろうかという歳に思われた。少女を無視して女は一方的に話を続ける。
「お嬢ちゃん、悪いことは言わないよ。この街には寄らないほうがいい」
「どうして?」
「ここは人でなしの街だからさ」
 女は憎々しげに言った。
「ご覧」
 そう言って都市の端を指差す。
 神殿か、何か。色彩上は都市の景観に調和した、白い建物が見える。
 少女が神殿かと思ったのは、それがあまりにも大きかったから。普通の家々を何十も積み重ねたかのような、巨大な白い「箱」。それは静かに、一際明るく光を弾いていたが、何故か周りには何の建物もない。郊外に、ぽつんと建っていた。
「あれは?」
「墓標さ。一人の男の」
「ああ、ここから海向こうの南のほうで王様の墓を物凄く大きく作るっていうような、あれ?そういう埋葬をするって聞いたけど」
 稀代の名市長さんとか、都市の英雄とかですかと、少女は白い塊に視線を向けたままぼんやりと尋ねる。
「そんな大層なもんじゃない。しかも、あそこに埋葬された男はまだ」
 女は言葉を切った。
「まだ、生きてる」
 少女は一瞬言葉の意味を掴みかね、眉を顰めた。
「埋葬って、死んだ人をするもんでしょう?」
「生きてる人間を、隔離するように壁で囲ったんだ。一生出してもらえない、生きたまんま埋葬されたようなもんじゃないか」
「はぁ」
 だから、喪服なのだろうか。
 ふん、と鼻息を吐いて女は、
「とにかくね、あの街の人間は『普通』と違うものが大っ嫌いなんだよ。だからね、あんたも行かないほうがいい。旅行者にはそりゃちょっとは優しいかもしれないが、下手をするととっつかまってあらぬ罪で刑務所行きにされちまうよ。やめておきな!」
 そう一息に言った。
「うん、でもあたし屋根のあるところに泊まってご飯食べたいの。自転車直さなきゃいけないし、洗濯もしたいんです。捕まったら…まぁ、なんとかしますよ。ご忠告どうも」
 少女が手をひらひらと振って、困ったような顔でそう言うと、女は無念そうな表情で唸る。
「そうかい、どうしても行くのかい。じゃあ勝手にするがいいさ!」
 女は急に機嫌を損ねると、足音荒く少女に背を向けて去った。
「……そうかい、そうかい!あんたもあいつらの仲間になるって言うんだね!誰にも迷惑かけてない人間を生きたまんま閉じ込めるようなやつらの仲間に!何にも悪くない。あの子は何にも悪くないのに、何も何も何も!あの子はあの子はあの子は何もッ!ああ、呪われろ、呪われろッ!」
 両手をわなわなと震わせながら、彼女の言葉は最後のほうになるにつれ絶叫のようになっていった。
 喪服の裾を土埃で汚しながら、女の黒が緑の奥に消えた。
「……」
 少女は無言でその姿を見送った後、
「なんなのよ、あのご婦人は…」
 毒気を抜かれたように立ちつくした。
 風が、潮の匂いを一際強く運ぶ。
 
 
 街の名前はリプコプというらしい。少女は街道を自転車を引っ張って十五分ほど歩き、門に至る。
「はい、ようこそいらっしゃいました。フローラ=ウインストンさんでよろしいですね?」係員が聞く。
「ええ、間違いありません」
 では判子を、と旅券の決められたページをめくる係員が、フローラと呼ばれた少女の旅程を見て感嘆の声を上げる。
「へえ、随分沢山の地方を周って来たんですねぇ!僕、始めて見ましたよ、こんなに判の押された旅券」
「そう?」
 国や大きな街に入るときには旅券に判を貰うのが決まりだ。フローラは少し嬉しそうに微笑んで、窓口から旅券を受け取る。
「ではごゆっくり。大通りの交差するとこにある店が、ご飯もベッドも案内人も良くてお勧めですよ」
「どーも」
 今度はにっこりと笑って、フローラはリプコプの街の中に歩いていった。
 
 
「あーあ、何度聞いても恥ずかしいわ、この名前」
 だいぶ門から離れた頃になって、フローラが小さな溜め息と共に呟いた。
 ひらひらと判子のインクがまだ乾かない旅券を揺らす。革表紙で手のひらにすっぽり収まるそれには、微笑む少女の写真が枠からはみ出して貼られていた。
 急いで作った偽造旅券の名前は、彼女の生まれた街で三十年前に流行った女の子の名前で、姓は街で一番多いものだった。
 フローラ=ウインストンの本名は、ソル。
 黒い長い髪に、よく動く青い目。いつも帽子を被ってトランクを提げている。
 ソル=ブライトは教えられた宿屋を探して壊れた自転車を、押した。
 
 
 
 
 

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