はじまりの街
09
  
 
 
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 牢獄の一日は長く、与えられる新聞を読むしかすることはない。
 多分、二ヶ月は経ったと思う。
 寂しかった。
 丘の上の屋敷にずっと居たのなら、こんなに苦しむことも無かったかもしれない。ずっと、一人だったから。だけれど、『青い鳥』で得た仲間や、悪態ばかりのギア、それにずっと傍にいてくれたルネ。彼らと過ごした賑やかな時間が、ソルを苦しめた。
 二ヶ月の間に、何度も大きな抗争があったようだ。牢獄の支配権も何度か入れ替わり、近所の独房の住人も頻繁に入れ替わった。だけど、ソルだけはずっと同じ独房に入れられたままだ。議会派にも市民派にも、裏切り者だと思われていたから。
――ネイズ議長邸襲撃。その場にいた議員五人と使用人頭が殺された。ネイズ議長は逃亡した模様。
 投獄されて暫く経った頃だ。その記事を読んでソルは泣いた。ネネが死んだ。
 数週間前、公安の一斉検挙で抵抗し、殺された者の欄にコットンとシイの名前を見つけたときも、ソルは泣いた。
「…みんな」
 数日前から、新聞も入らなくなった。遠くで爆音が聞こえる夜が続いた。
 どうしたらいい。
 どうにもできない。
 日付を数えることもできなくなった頃、面会人が来たと牢番が言った。寝台にうずくまって眠っていたソルを起こしたその男は、天河亭で何度か見た、ソルに革表紙の本を差し出した、あの老人だった。
「あんたに、お客だ」
 
 
 
 
 
 独房の格子が甲高い音を立てて開いた。
 ソルが顔を上げると、見慣れた青年の姿がそこにあった。彼は自分も房の中に入ると、老人に鍵を掛けさせて、呼んだら開けに来て欲しい、と頼んだ。
 今この地下牢は市民派の管轄なのだろう。だからこんな無理が通るのだ、とぼんやりと思う。
「ソル」
 耳に心地いい、優しい低音が名前を呼ぶ。
「ルネ…」
 ちゃんと笑えているだろうかと、思う。
 あたしは、平気。
 そう言おうとしたのに、声が詰まる。溢れてくる泣き出したい衝動を、止める術をソルは必死に探した。顔を歪める。
 ルネはゆっくりと、膝を抱えて座っている彼女に近づいて、その隣に腰を降ろす。
「ソル」
「…なに?」
「君のお父さんが」
 そこでルネは言葉を切ったが、それだけで彼の言わんとしたことは十分分かった。
 父は、死んだ。
 ソルの青い瞳から、静かに一筋涙が流れ落ちる。
 いつか、こうなると思っていた。
 こうなると思っていた。
 自分の下からすべてが去ってゆく。そんな予感がいつもあった。
『青い鳥』の仲間達からは内通者として追われ、議会派の、父の仲間達からは裏切り者と責められる。
 そしてネネは死に、今また父の死を聞かされる。
 最後に残ったこの人の口から。
「ごめん」
「…謝らないでよ」
 悪いのはルネじゃない。そしてきっと、父を手にかけた誰かでも、ネイズ=アーテンサイアその人でもない。いや、父は悪かったのかもしれない。罰せられるだけの事をしたのかも、しれない。
 だけど、誰のせいでもないと、ソルは思った。
 こうなるように、なっていた気がした。
「…ごめん。オレが君を誘ったせいだ…」
「あたしが決めたことよ。全部自分のせいだもん。謝るなって、言ってるで……ルネ?」
(口を開けば、強がりばっかり)
 もう何も、人のための言葉は、使わなくていいから。
 ルネは、ソルを抱き締めた。
「ルネ…?」
 男のくせにやけに細い腕の力は、思いのほか強い。ルネの金色の髪が耳をくすぐる。
「黙って、泣け!」
 びく、と身を竦めるソル。こんな大声を出すルネを見たのは初めてだった。声が、直接に響く。
「……馬鹿、野郎……」
 父やネネが聞いたら、顔を顰めるだろう言葉を呟いて、ソルは恐る恐るルネにしがみついた。
「怒鳴ること、無いじゃない……」
 声が漏れないほど、強く抱き締められて、ソルは火がついたように泣き出した。
 放っておいてくれたら、泣かないでいられたのに。
 少しでも強いままで、いたかった。
 だけど、この人の前でなら、泣いてもいいような気もした。
「あたしは、どうなるの?」
 しゃくりあげながら、ソルはルネに尋ねる。
「このままロウミュラにいたら、ソルの身の安全は保障できない」
 ルネは静かに答える。この街はゆっくりとソルを包囲して、彼女の首を締めるだろう。
「協力してくれる人がいる。街を出るんだ」
「ルネは?」
「オレは抜けられない。『青い鳥』はそれを許さない」
 いやだ、とソルはルネの肩掛けを握り締めた。
「あたしにはもうルネしか残ってない。離れるのはイヤだよ…!」
 掠れた涙声で訴えると、ルネはちょっと困ったように背中を撫でる。
「ねぇ、ソル。今はここを離れて、もっとずっと時間が経ったら――この街の火が消えてしまったら、戻ってくればいい。オレが、いつまででも待ってるから」
 ルネはソルのまた少し伸びた髪を撫でる。
「いろんなところへ行って、いろんなものを見て、いろんな人と会えばいい。そうしたら、ソルがロウミュラで叶えられなかった願いが叶う」
「願い…」
 うん、とルネは微笑む。
「ソルは昔から、誰よりも自由でいたかった筈なのに」
 周りがそれを、許さなかった。
「でも」
 ソルは呟く。一人だけ、ここから逃げるなんて。
 それはしたくないと、思っていたのに。
「行きなよ。後のことは任せて。オレはこんな身体で一緒には行けないから、オレの分も」
 ソルは涙の筋の残る顔を上げて、ルネを見る。ルネの緑の瞳は、呆れるほどに優しい。
「世界を見てきて、ソル」
 美しい物ばかりじゃないだろう。
 汚れたものもたくさんあるだろう。
 それでも、黙って与えられるものを待つより、君は豊かになれるだろう。
「ね」
「……うん。待っててくれるよね、ルネ。絶対、絶対あたし、ルネのところに戻ってくるわ」
「いつまででも」
 ルネは頷いた。
 その約束さえあれば、歩いていけるような気がソルにはした。
 
 
 
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 真夜中。牢獄からルネが去った後で、ボスとカーは催眠ガスを使って牢獄の中の全員を眠らせると、ソルを毛布に包んで連れ出した。
 後に、この二人と一緒にいたルネの目撃証言が幾つも出て、大変な事になるのだけれど、それはまた別の話だ。
 ボスは、被っていたフードを外すと、優しい声でカーが背負うソルに向かって呟いた。
「この幸せ者」
 眠りこけていた筈のソルは、優しい、ちょっとひょうきんな男の声を、ぼんやりと聞いた気がする。
「世界はお前にも平等だ。たくさん、泣いて、笑いな。俺達も、出来るだけ見ててやるからさ」
 
 
 
 
 
 いつか一晩中考えて、家を出ると決めた朝。薬の切れたソルが目を覚ますと、あの日と同じように美しい夜明けが、総てを金色に染めていた。
 隣には、太陽に背中を向け、長布を完全に降ろしたルネの姿。
「はい、これ」
 城門の外で彼がソルに渡したのは、彼女の写真が入った偽造旅券だ。
「ふ、フローラ=ウインストン…?」
 フローラは三十年以上も昔に流行った名前で、ウインストンは今年の統計で、ロウミュラに一番多い姓だ。
「あと、これ。君のお母さんの帽子」
「母さんの?」
 白い、鍔広の、ちょっとだけ古びた帽子を、ソルは見つめる。
「協力してくれたのは、お母さんを知ってる人だったんだ。彼からの預かり物」
「母さんの知り合い?その人が、助けてくれたの?」
 そうだよ、とルネは微笑んで、帽子をソルに被せてやる。微かに花の香りがした。
「ちょっとだけ大きいかな」
「似合うよ」
 ルネが揃えてくれたトランクや地図を受け取って、ソルは真っ直ぐに街道を見つめた。何処までも続いていくように、果てしなく見えるその道を、これから自分が歩いてゆく。
「ルネ」
「行ってらっしゃい」
 しがみついてきたソルに、ルネは口付けようとして、やめる。何故思いとどまったのか、自分でも少し不思議だった。
 思い出が、残りすぎないほうがいい。
 彼女はいつか帰ってくるのだから。
 ソルは微笑んだ。
「行ってきます」
「ソル。君の道程が、豊かなものでありますように」
 短い別れの言葉を残して、二人は分かれた。
 ソルは、続く道の向こうへと。いつかいつか、ロウミュラに戻ってくる筈の道の先へと、進む。
 ルネは、夜明けのロウミュラの街の中へと。この街に彼女が帰ってこられるように、努力をしようと思いながら。
 
 
「約束は終わらない」
 
 
 
 
 彼と彼女の望んだように、彼女の旅路には数え切れないほどの願いが、歌が、道があった。
 ソルはたくさんのものを見る。
 ルネは目を閉じて、彼女が見ている筈のもののことを思った。
 
 
 
 
 
 いつか、必ず帰るから。
 ソルは一度だけ振り返って、彼女のはじまりの街を見つめた。
 長い旅が、始まる。
 
 
  
  
  
おしまい
幾つもの旅へ、つづく
2004年7月発行個人誌「旅行者」収録作品

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