クノッソス
04
 
 
  
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 壁が変な所で切れたり崩れたりしていて、なるほど人々が好き勝手に作ったものらしい。しんと静まり返った石の中で、ソルは道を辿る。迷路とはよく言ったもので、まるで筋道というものがない造りをしていた。
 誰かが、おそらくは例の物資を運んでいるという役人がつけたのだろう。白いチョークの線が一本、目線の高さに引かれていたので、とりあえずそれを辿ってみる。
 ソルは、こんな迷路に大人しく閉じこもっている悪魔の使い、と容貌を思い浮かべようとしてみたが、どれも失敗に終わった。
 
 
 天気は良かった。
 吹き抜けのような、四方を壁に囲まれた空間で、男と女が寄り添って笑っている。
 その空間には、片隅に古びた木の扉があった。彼も彼女も、そこを自分から開けることは滅多にない。
 その扉が、ゆっくりと外から開いた。
 顔を出したのは、黒い長い髪の少女だった。
 
 
 ソルは思いがけなく眼を焼いた眩しさに、思わず立ち止まって瞼をしばたかせた。長い回廊の突き当たりにあった、古い木の扉。難なく開いたその先には、男と女が寄り添って笑っていた。
「……空がある」
「君は…?」男が立ち上がって、怪訝そうに問う。
「あたしはソル。あなたが、埋葬された男?」
 ソルも驚いたように問うた。男は逡巡してから、
 困ったように笑って答えた。「そう」
「そう――僕が、六本指の化け物――」
 本当に、困ったような顔だった。
 
 
 男の名前はササイ。本当に指が六本あって、手も人より少し大きいようだった。髪は日光みたいな金色で、瞳も色を落としたように薄い青色をしていた。
 女の名前はリブラ。この街のすべての人と同じ黒い髪と黒い瞳の、小柄な女性だった。長い髪を後で結い上げていて、話す声は穏やかで優しい。
「じゃあ、リブラはササイの奥さんなの?」
「ええ。呼ばれていないのに勝手に来てしまったの」
 リブラは微笑む。二人はこの敷地で取れたのだという香草のお茶を出した。ここにはささやかながら家を取り囲むように畑があって、井戸もある。
 白い壁も、男から空までは奪わなかった。
「ソルは、何でこんなところに?」
「ササイには角か牙でもあるんだと思って」
「はは、角がなくてがっかりした?」
「うん」ソルは暗い顔をした。
「角があるなら、閉じ込められるのも分かる気がするけど。指が六本あって毛色が違うだけで、ササイは化け物にされちゃうの?」
 ササイは黙った。リブラが哀しそうに俯く。
「仕方ないの、この街の人は何にも知らないから。この街は山と海で仕切られているから、街の外がどんなところか知らないのよ。わたしの父はササイのお父様の友達で、わたしは小さい頃からずっとササイの傍にいた。彼が化け物なんかじゃないこと、誰よりも分かっているわ」
 ササイを愛おしそうに見るリブラ。ソルはお茶を一口飲んだ。
「だからササイが化け物と呼ばれて、石を投げられているのを見るのは辛かった。ササイはわたし達と同じ人間で、優しい人だと叫びたかった。でも、誰も耳を貸してくれない。父は、何も言わずに引越しをしたわ」
「そうして、壁が?」
「ええ、壁が。壁ができた。わたしは小さい頃からずっとササイの事が好きだったの。哀しくて、悔しかった」
 リブラは泣きそうな顔で微笑むと、続ける。
「証明したかった。この世界のどこかに、ササイとおんなじ色の髪や目をした人達もいて、ササイと同じように奇形で生まれて苦しんでいる人達もきっといる。ササイは一人じゃないし、悪魔の使いでも化け物でもないって――証明したかったの」
「リブラは北の山を越えて、僕の母が生まれたという国を探して旅をした。十年もかけて、そうして見つけて帰ってきたんだ」
 山を越えた北の地には、金の髪や薄い色の目をした人々が都市を築き栄えていた。リプコプよりも、もっと技術の進んだ都市だった。
 そこではリプコプの民のように、黒い髪と目をしている人のほうが珍しい。
 胎児のときに、その母体が化学実験の失敗によって生じた特殊な光線を浴びたせいで、奇形児として生まれ苦しんでいる人々も大勢いた。
 リブラは喜び、そしてこの街に帰ってきた。
「街の人は話を聞いてくれた?」
「……いいえ、誰も耳を貸してくれなかった。一年頑張ってみたけれど誰も。だからわたしは、街を捨ててササイを選んだ。ここに来たの」
 リブラは細い指を組んで、俯く。彼女も、鍵のない檻の中に生きることを選んだ。
 愛しい者と同じ場所に。
「人って、結束すると強いのね…本当に、そう思う。例えば、皆で手を繋いで輪になって、焚き火を囲んでいるとするわ。その人たちはとても親密で、暖かく満たされているかもしれないけど、絶対に外側からは加われないでしょう。そして、明るい火ばかりを見て周りの闇はますます深くなる。周りの物も見えなくなる。この街もおんなじよ」
 団結と、外部との隔絶は表裏だ。結束が固ければ固いほど、外から来るものに対して狭量で、盲目的になる。隔絶された地形で長く暮らしたリプコプの人々は、他の人種と交わる事をしなくなっていた。
 この街は、異質なものを排除する。
 たまたま髪と眼の色が薄くて、指に生まれつきの付加があった。それが。
 たったそれだけが、理由。
 違いすぎた、それだけが。
 偶然の積み重ねとしては、それはあまりに重い枷に思えた。
「哀しいね」ソルはぽつりと言った。
「…うん」ササイもぽつりと、落とすように言う。
「ササイは、ここから出て行かないの?」
 鍵はかかっていないのに。
「…うん。多分。きっと街の人たちはまた僕を怖がって石を投げるだろう。やっぱり僕は異物なんだろう。僕が出て行かないほうが、いろんな事が丸く収まる」
 ササイは四角く切り取られて与えられた空を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「それに、僕のためにここまで来てくれたリブラも、出て行けば同じように扱われるだろうから」
 悪魔と通じた女、妄言者、気違い――彼女を罵る言葉は幾らでもある。おそらくは。
 リブラは静かに頷き、微笑んだ。
 そうして、そっと自分を抱きしめる。
「わたしの中に、赤ちゃんがいるの。この子とササイと一緒なら、この中でもどこでも生きていける」
 ソルは思わずリブラの下腹に目を遣る。言われてみればそこに微かな膨らみがあるように思えた。
「僕達は、この現状を受け入れている」
 ササイの表情は奇妙なほど晴れ晴れとしていた。
 扉に鍵が無くても、内と外の間には、見えているのより高い壁がある。それを取り払う事は、傍目にも容易には見えない。
 誰も傷付けず、争わず、静かに。
 決められた箱の中で生きてみようと。
 それが、彼と彼女の答えだった。
 
 
 
 
 
 彼は、都市を憎んではいなかった。
 己をも、母をも、他者をも憎んではいなかった。
 それでも街人は、彼に石を投げた。
 石は積もり、彼を守る壁になり、彼を隔てる壁になった。
 壁は彼を傷から守りはしたが、どんどんどんどん高くなり、彼を完全に隔離した。
 ああ。
 ああ、哀しや。
 男には、角なんて無かった。無かったのに。
     かな
 ああ、愛しや。
 一つの都市という有機体、それのなんと愚かなことか。男は、少し変わった姿に生まれただけだ。

 なのに壁は、いつのまにか、こんなにも高く厚い。
 
 
 
  
 

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