クノッソス
05
  
 
 
   *****
 
 
 
 男と女は壁の中に留まり、少女だけが墓穴と呼ばれるそれから帰ってきた。
 門の老爺は中でのことをしきりに聞きたがったが、ソルは適当にあしらってその場を去った。とても彼に話す気にはなれない。
 話すべきこととも、思えなかった。
 
 
「や、ソル。どうしたの、暗い顔して」
「エカテリーナ」
 いるか亭の食堂で紅茶をすすっていると、背後からエカテリーナが穏やかに声をかけてきた。カーも一緒だ。顔色が悪いのはおそらく二日酔いだろう。
「…行って来たの。あの白い箱」とソル。
 呟かれた言葉に、不思議な二人組が目を丸くする。
「化け物とやらに、会えたのか?」
「うん――普通の、男の人だったよ。指は六本あったけど、髪と目の色は薄かったけど。角も、牙も、尻尾も無かった」
 普通の、ただ穏やかで優しそうな、彼。
 そして、何もかも捨てて彼を選んだ彼女。
 幸せになっていいはずの、二人。
「なんだかかなしい」
 ぺたりとテーブルに伏して、呟くソルの頭を、カーががしがしと撫でた。
「あたし、明日この街出る。自転車直ったし」
「………」
「そうか」
 二人組はへたれているソルの頭上で、意味ありげに顔を見合わせて、笑った。
 
 
 翌朝。やっぱり天気は良かった。
「おじさん、ごめん。二泊になったね」
「まぁ、かまわねぇさ。いつかまたこの街に来る事があったら、ウチに泊まってくれや!」
「そうする」
 きっと、そんな事は無いだろうけれど。
 
 
「ウインストンさん、出発ですか?次は、どこへ?」
「南の方にしようかな。別の大陸に行ってみたい」
 多分きっと、違う人たちに会える。
「自転車で?」
「陸があるうちはね」
「そうですか、お気をつけて!リプコプは如何でしたか?」係員の最後の言葉。
 ソルは、ゆっくりと視線をめぐらして、答える。視界の端に彼と彼女の白い檻が引っかかった。
「――とても、素敵な街だったよ」
 彼女は、嘘を、ついた。
 
 
 
 
 もと来た下り坂を、今度は必死に上る。朝の日差しはそれほど強くは無かったが、ソルに多少の汗を流させた。
 広場まで来たが、ソルは振り返らない。
 喪服の女の姿は見えず、彼女は真っ直ぐ街道に出て南へと向かった。
「ひどい」
 あんなのは、酷い。
 そうして、かなしい。
 もやもやとやりきれない思いを抱えて、ソルは坂を上る。ただ、上る。
 
 
―――ドォォ……ン―――
 
 
「……?」 突然の轟音と微かな地面の揺れ。ソルは漕ぐ足を止めて思わず振り返った。リプコプの、方から。
「何だろう」
 地震ではない。気になったが、待ってみても何が起こるというわけでもない。
 やがて諦めてそのまま街道をゆっくりと走る。
 
 
 しばらく経った頃だった。
「うわぁっ!」
 物凄い音を立てて、茂みから一台のトラックが飛び出して来た。ソルは急停止し、慌ててその車を見る。そして叫んだ。
「なにやってるのよ、カー!」
 それに、エカテリーナ。
「や、ソル」気軽に、窓から声をかけてくるカー。
「や、じゃなくて。何でこんなとこから…」
「爆弾魔は逃亡中なもので。急いで走ってたら獣道に入っちゃってあはははは」
 カーの馬鹿笑いが森に響く。
「爆弾魔って…!まさかさっきの音」
「壊してきちゃった、白いアレ」
「うそッ…!」
 あんな巨大なものを?
「言っただろ?誤差〇.一パーセントの爆薬筒。真ん中残して平らにしてきた」
 カーとエカテリーナは至極楽しそうに言う。
「降りてきなよ、二人とも!ソルがいたんだ」
 カーが声をかけると、荷台からおずおずと金と黒の頭が覗いた。
「ササイ、リブラ…!」
 ソルは目をまん丸に開いて、二人の顔を穴が開くほど見つめた。
「攫ってきちゃった」
 エカテリーナはにやりと笑う。
「私達のボス奇特な人でさぁ、実はリプコプに行ったのも仕事だったんだ。隔離されてる男を日の当たるところに引っ張り出してこいって」
「あいつらにはもう説明したけど、ちゃんと住む所も仕事も、等しい隣人もいる。ここから東の国に行くんだ」
 自由な場所へ、連れて行く。
「呆れた…!事情知ってて、白々しく何にも知らないふりしてたわけ?」
「まぁね。とにかく、ササイとリブラを閉じ込めてる檻をぶち壊して、リプコプから連れ出してボスの国に連れて行くのが、私らの仕事なわけ」
 ボスって何者。聞いてみたが二人組は教えてくれなかった。
「でもまぁ、良かった。ササイ、リブラ、これで、よかったんだよね?」
 ソルは荷台から降りてきた二人に笑う。
 二人は、戸惑ったように顔を見合わせた。
「……きっと」
「そうね、きっと」
 少し不安だけれど、というリブラに、ソルは何言ってんの、と微笑む。
「ササイと赤ちゃんと一緒なら、きっとどこでだってしあわせになれるよ。そうでしょ?」
 それは彼女が言った言葉。
 聞いて、リブラは心からの笑みを見せた。
「ええ…そうだったわね!」
「じゃあ、俺達は行くぜ。また、いつかどこかで」
「じゃあね、ソル」
「うん、さよなら!」
 カーとエカテリーナがトラックの座席に乗り込む。
 ササイとリブラも荷台に乗り込んだ。車はソルと自転車を残して走り出す。二人は幌を開けて、叫んだ。
「さよなら、ソル!気をつけて!」
 ササイの髪がきらきらと光る。前よりもずっと、すがすがしい笑顔と声。
「ありがとう、ソル!あの迷路に訪ねて来てくれて。わたしたちを見てくれて。本当に嬉しかった!」
 リブラは目元を潤ませて、歌声のように。
 何故だか胸が熱かった。
 ソルは、最大級の祈りを込めて、応える。
「さようなら、ササイ、リブラ!お幸せに!」
 トラックは、瞬く間に小さくなったが、六本指の大きな手と五本指の小さな手はずっとずっと別れを惜しんでいた。
 
 
 ササイの母は、二人組が事情を話すと、滂沱と涙を流してこう言ったという。
 黒いヴェールを外して。
「私は行かない…その方が、きっといい。ああ、お前は解き放たれたのだね。ササイ。私は残って、あの人の墓を守ります。ササイ、愛しい息子よ。リブラ、優しい義娘よ――どうか、幸せであれ」
 そうして彼女は、二度とヴェールを着けることは無かった。黒い服も、綺麗に畳み込んで、彼女の死んだ夫の墓を訪れるときにしか着なくなる。
 ソルも思った。どうか、幸せであれ、と。
 晴れやかな気持ちで、願った。
 
 
 
   ******
 
 
 
 ソルは自転車を漕ぎだす。 いつまでこの道が続くのかは分からないけれど、ただ、行き着く処へ向かうために。
 希っても希っても、叶わない願いがある。
 叫んでも叫んでも、届かない歌がある。
 辿っても辿っても、引き返せない道がある。
 時にはその足で、時には自転車で。必要とあれば船に乗り、通りがかりの車に乗せて貰ったりもして。
 時には馬なんかにも乗ってみる。
 ある処から出てある処へと帰るための、旅程。
 帰る筈の処で、待っている筈の彼。
 終わらない旅路など無く、終わらない約束は確かにある。
 願いが叶わなくても。
 歌が届かなくても。
 時間を遡ることができなくても。
 彼はあの街でソルを待っている。
 だから、ソルは其処を目指して歩き続ける。
 
 
 
 
 
おしまい
2003年7月発行「ムセイオン 45」収録作品

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