ロゼッタの汽車
04
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******** 気温の高いアイツオフィアは、そのため夜が肌寒い。 ソルとロゼッタは、ブランケットを肩にかけて、車両の接合部に出て夜天を眺めていた。 「こんなふうに、星を見るのは初めて」 ロゼッタは呟いて、手すりにもたれて知っている星座を探そうとした。 自分の信じていた価値を、探そうとしていた。 「ここは南過ぎて、知ってる星は見えないかもよ」 ソルの言葉に、ああそうか本当に遠くへ来てしまったのだ、と思う。 知っていたことだけでは、量れないこともある。 「……ねぇ。ソルは、何で旅をしているの。どうしてアイツオフィアに行くの?」 ソルはきょとんとして、それから言葉を捜す。 「えーと…昔一度行ったことあるんだけどね。あたしはずっと旅をしてて…十六の時に、住んでた街に居られなくなってから、ずっと」 「あてもなく?」 そう、ただ、気の向く方へ。 一年程前、ピンクの頭の男が彼女の元を訪れるまで。 「帰っていいよって言われたから、今まで通った道を引き返してるの。出発した所に帰るために」 「真っ直ぐ帰らないの?」 「随分長いこと旅してたから。昔のあたしと、今のあたしじゃ、見えるものも違うかなって」 昔通った道が、無くなっている土地もあった。美しかった都市が廃墟になっていたり、新しい道ができていたり。新しい街ができていたりもした。豊かな森が砂漠に呑まれていた。ある街は水に沈んだ。ある丘は一面の花畑に。 そして、まだ見ぬものもきっと世界にはたくさんあるのだろう。誰の目にもつかない場所でも、確実に変わり続けている、それが、ソルのいる世界。 「それなら見てみたいなぁって、思って。待っててくれる人にも、いろんなものを見て来いって言われてるしね」 ロゼッタは息をつく。 彼女は見続けた人だ。ロゼッタがサンルメールの寄宿学校で、全てのことから離れてひたすらに祈り学んでいたのと同じだけの時間を、世界中を見つめることに使ってきた人。 「…わたくしよりもきっとずっといろんな事を知っているのね、ソルは」 「どうかなぁ」 苦笑したソルに、ロゼッタは、暫くの沈黙の後で、そっと訊ねた。 「ねぇ、ソル。アイツオフィアはどんなところ?」 「…ええとね。太陽が近くて、空気は乾燥してて、果物が美味しくて。南の海の貿易船はみんな都に寄るから、いろんな国の物と人が溢れ返ってる。外国の大使館がたくさんあって、市場も賑やか。とても豊かだよ」 「タイシカン?」 ロゼッタは聞いたことのない単語に小首を傾げる。 「そこに外国の外交官がいるの。上手く説明できないんだけど…」 トラブルがあった時は窓口となり、本国とアイツオフィアとの親交に努めている。大使とアイツオフィアの要人同士が、お互いに食事に招待したりもするらしい。ソルは言葉を選びながら、ゆっくりと説明した。 凄い、とロゼッタは感嘆する。 「そんなこと、考えたこともなかったわ」 「だからアイツオフィアには人が集まるの。って言っても、場所が場所って言うか、こっちの大陸の端の端にあるからね、都が。だから集まるのは、東洋の国や西の海岸の国の方が多いみたい」 港もなく、列車を使うしか手段のないサンルメールとは、戦争が在っても無くても疎遠だったかもしてない。 「王様もいい人だしね。あたしみたいな旅行者でも、頼めば会って下さる」 そんなソルの言葉を聞きながら、ロゼッタは父の言葉を反芻していた。懐かしい、声を思い出しながら。 ――だけどアイツオフィアはかつてのような蛮族の国ではないんだ。むしろここ百年ただただ平穏を貪っているサンルメールよりも、ずっと進んだ国だよ。 ソルの話が本当なら、確かにアイツオフィアは蛮族などではない。父の言葉どおり、外国と距離を置いて、孤立気味のサンルメールより、とても発展しているのだろう。 (認めたくないけれど…) 「そうなのかも、しれない……」 「シェリさ、昔サンルメールのこと嫌ってた」 「…どうして?」 むっとしたようにロゼッタは聞いた。 「百三十年も昔のことを、なんでいつまでも根に持つのかって。彼はそのとき思ってた」 子供の頃に歴史を学んで。彼は見たこともない遠い国を嫌った。 そうして、そのまま少年になった彼は、ある日サンルメールからやってきたという一人の商人に出会う。 彼と商人は一晩、語らった。 翌朝、彼は商人に言った。 ――俺は、被害者の痛みがどれほど大きかったかなんて、考えてもいなかった。 殴った側はその事を水に流すつもりでも、殴られた側は決して忘れないだろう。平和だった自分達の世界に、突然侵入して争いを始めた者達のことを。 彼はその商人に謝った。 ――すみません。何も知らず、何も考えず、無責任な嫌悪だけをあなた方にぶつけていた。戦で流された血は俺には償えないけれど、目を開けることが、出来た。 商人は穏やかに、首を横に振った。 ――それは良かった。お互い様です。私もかつては貴方達を憎んでいたのだから。 そう言って、二人は笑って握手して、別れた。 「…………」 「だから、シェリはきっと、同じ事をロゼッタにも伝えたいんだと思う。分かって欲しいんだと、思うよ」 ロゼッタは、処理しきれないたくさんの気持ちを抱えたまま、ゆっくりと立ち上がって満天の星空を仰いだ。 「……わたくし、少し考えてみるわ」 「うん」 ソルは嬉しそうに笑う。こうしてひとつひとつ、絡まった紐が解けていくならいい。綺麗に、結びなおせるならいい。 寝台車に入って行きかけたロゼッタは、ふと振り向いてソルに訊ねた。 「ねぇ、ソルを待っている人は、誰?恋人?」 思いがけない問いに一瞬沈黙するソル。もしもそうだったなら、いろんなことの答えは簡単なのに、と内心呟いてから、彼女はその問を明るく笑い飛ばした。 「あはは、そんなんじゃないよ。幼馴染で、すごくすごく大切な……」 彼は――友達。 そう言おうとして、何かが違うような気がしてソルは言葉を飲み込む。 「――大事な、人だよ」 それだけ、答えた。ロゼッタは微笑して、寝台車に消えてゆく。 「…そう。おやすみなさい」 「おやすみなさい」 たたん たたん たたたん 夜の列車がゆく。 星空と繋がった、暗い荒野を縫うように。 知らない星ばかりが並ぶ星空は、少し前に進む勇気を、与えてくれるような気がソルにはした。 |